<チョコレート>

製作:2001年(米国)
監督:マーク・フォースター
出演者:ビリー・ボブ・ソーントン、ハル・ベリー、

映画を観て最初に思ったのはタイトルの違和感です。原題は「Monster’s Ball」(怪物の舞踏会)となっていましたが、これは「死刑の執行前に看守達が行う宴会」を意味するそうです。これが邦題で「チョコレート」と変わったわけですが、この「チョコレート」も「年配の白人男性と付き合う若い黒人女性の隠語」だそうです。

しかし、一般の人はそこまで知識を持ち合わせていないのが普通で、やはりどうしても違和感のほうが先にきてしまいます。配信会社の担当者の勇み足と言っては言いすぎでしょうか。いっそのこと「Monster’s Ball」と原題のままにして、日本の人たちに興味を抱かせる作戦のほうが面白かったように思います。

公開は2001年ですが、黒人差別問題が社会を揺るがせている今こそふさわしい映画ともいえそうです。もしかしたなら、amazonプライムが今のこの時期という意味で、意識的にラインナップしたのかもしれません。以前このコラムで「グラントリノ」という映画を紹介したことがあります。その映画は2008年公開でしたが、この映画も黒人ではありませんでしたが、やはり米国社会における差別に対する提言的な内容でした。こうした映画が製作されるのを見ていますと、米国はいつの時代も差別問題が社会の根底に横たわっていることを実感させられます。

日本人である僕からしますと、今一つわかりにくいのは、黒人差別という問題がありながらも、多くの人から支持され尊敬される黒人のアーティストやスポーツ選手がたくさんいることです。例えば、「バスケットの神様」とまで評されているマイケル・ジョーダンさんや音楽業界では同じマイケルのジャクソンさん、野球界ではヤンキースのデレク・ジーターさんなどがいます。この差別と尊敬の2つが米国で成り立っていることが不思議です。

差別という点で言いますと、インドは米国以上に身分差別が残っている国のようです。僕がコロッケ店を営んでいるときに、インド人の奥さんが買いに来ていました。最初は旦那さんが買いに来てくれていたのですが、そのうちに奥さんも一人で買いにくるようになっていました。

この奥さんはかなりの勉強家のようで、日本語を学ぶためにわざわざセミナーに一人で通っていました。セミナーで使う教科書がたまたま手提げバッグの中から見えたので、尋ねたところセミナーのことを話してくれました。旦那さんは日本企業で働いているのですが、その旦那さんと一緒に異国にやってくる度胸に感激した覚えがあります。しかも勉強家なのですからなおさらです。

しかし、ニュースなどから知るインドは身分制度が今も歴然と残っているようです。今の時代に男尊女卑も激しいようで、田舎の地方では今でも厳然とカースト制度が残っていて、最下層の女性は殺害されてもあまり気にも留められないそうです。インドの人口は14億とも15億とも言われていますが、それだけの国民を納めるのは簡単ではないはずで、まだまだ国家の体をなしていないのが実情のように思います。

先日、インドから来日している人にインタビューをするyoutube動画を見たのですが、観光で来ている人もいましたし、ビジネスで来ている人もいました。そのインタビューの中でパキスタンから来た人もいたのですが、会話の中で淡々と「昔はパキスタンとインドは同じ国だったから」と話していたのが印象的でした。

国家同士の争いはあっても、それぞれの国で生活している人たちからするとそれほど憎しみはないのかもしれません。そんなことを思わせるインタビュー内容でした。そうしたことを思うとき、かつて植民地化していた英国が自分たちの都合のためにわざとインドとパキスタンを敵対させる政策をとったことに憤りを感じます。

黒人差別もそうですが、今の時代に人種差別的な問題が起きる根源はすべて、昔の大国同士の争いにあるように思います。力によって他国を支配し、または奴隷として黒人を売買した大国にこそ責任があります。それはまさに今の先進国と言われる国々ですが、先進国の人たちはそのことをもっと考える必要があります。ここで「日本も含めて」と書いてしまいますと、自虐史観と非難されそうですが、「一時期の日本も」そうした発想を持っていたのは間違いないところです。

さて、映画に話を戻しますと、この映画は男女の恋愛映画というよりも黒人差別とか死刑制度がテーマの映画のように思います。特に前半は死刑が執行される流れを一般の人に知ってもらうのが目的のような内容になっていました。

恋愛映画っぽいところと言いますと、ハル・ベリーさんのエロティックな場面ですが、この場面は興行的な側面が強いように思いました。「無理やりに作った」とまでは言いませんが、この場面が必然とも思えませんでした。とは言いつつ、エロティックな場面は興奮しましたが…(^_^;)。

この映画の肝は「主人公が男性の素性をいつ知るか」でしたが、結局、それは最後の最後でした。それを知ったあとのハル・ベリーさんの反応は、観ている人にいろいろと考えさせる演技だったと思います。

ハル・ベリーさんは、顔をしかめながら拳でベッドのシーツを幾度も幾度もたたくのですが、その動きは「悔しさ」ともとれますし、自分のふがいなさともとれました。そのあとに、男性主人公が戻って来る場面になるのですが、そのときに見せる表情からは「悔しさも「ふがいなさ」も感じられませんでした。まさに観客それぞれが感じられるような余白を残した演技と言えます。

この映画が中途半端感で終わるのは、この女性主人公(ハル・ベリー)の最後の表情にあるように思います。普通の物語の流れですと、真実を知った女性主人公が男性主人公を非難するとか、憎しみをぶつけるとかしそうですが、この映画はそうした結末にしていません。

女性主人公は、ただアイスを食べるのです。この余白は観る人によっていろいろな思いを抱くように思います。「悔しさ」「あきらめ」「希望」などでしょうか…。中には「悟り」まで感じる人もいるかもしれません。

このようになんともいえない女性主人公の表情なのですが、さらに深読みをするなら、この中途半端な表情こそが今の黒人差別の問題点を映しているとも言えそうです。目に見えないなにか空気のような差別感です。この差別感の難しいところは、人の心の中、もしくは無意識の中にあることです。

人の心の中、もしくは無意識の中を他人がコントロールするのは洗脳という行為で、やってはいけないのは言うまでもありません。

それではまた、次回。

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