顔のないヒトラーたち

2014年製作/123分/PG12/ドイツ
監督:ジュリオ・リッチャレッリ
出演者:アレクサンダー・フェーリング、フリーデリーケ・ベヒト、アンドレ・シマンスキ、ゲルト・フォス、ヨハン・フォン・ビューロー

あらすじ
ドイツ人のナチスドイツに対する歴史認識を大きく変えたとされる1963年のアウシュビッツ裁判を題材に、真実を求めて奔走する若き検事の闘いを描いたドラマ。
1958年、フランクフルト。終戦から10年以上が過ぎ、西ドイツでは多くの人々が戦争の記憶を忘れかけていた。そんな折、かつてアウシュビッツ強制収容所で親衛隊員だった男が、規則に違反して教師になっていることが判明する。新米検事のヨハンは、上司の制止も顧みずジャーナリストのグルニカやユダヤ人のシモンと共に調査を開始。様々な圧力にさらされながらも、収容所を生き延びた人々の証言や実証をもとに、ナチスドイツが犯した罪を明らかにしていく。(映画.comより引用)

この映画を観ようと思ったきっかけは、一昨日の「たまむすび」というラジオ番組で町山智浩さんが「ファイナルアカウント第三帝国最後の証言」という「ナチスだった人たちにインタビューをする映画」を紹介していたからです。どちらもナチスを糾弾する内容ですが、いかに「普通の人が、悪い人になるか」が映し出されています。

ずっと以前、ハンナ・アーレントという哲学者が同じようなことを主張して物議を醸したことがあるらしいですが、「普通の人が、ときと場合によっては悪い人になる」は人類の永遠の難問のように思います。

町山さんは「仕方なかった」という理由で悪いことに手を染める、または加担する人は「次に『仕方ない』状況になったときにも、また同じことを繰り返す」と話していましたが、「仕方なかった」は本来は悪事を働く際の言い訳にはならない、いえ、なってはいけないはずです。そうでなければ、いつまで経っても平和な社会は訪れないでしょう。

主人公役のアレクサンダー・フェーリングさんは若き頃のロバートレッド・フォードさんに似ていました。今の若い方はロバート・レッドフォードさんをあまり知らないでしょうが、僕が学生時代に名画座で観ていた映画ではよく観たハリウッドの俳優さんです。実は、僕の映画ベスト3のうち2つはレッドフォードさんが出ている「スティング」と「明日に向かって撃て」なのです。

話をこの映画に戻しますと、この映画は出だしの場面が秀逸で、「金網越しにライターを借りるときにたまたま見た手が映し出された」瞬間に映画に惹きこまれました。たったあの場面だけで、この映画が訴えたいことが映し出されていました。

この映画を観ていますと、歴史上に存在するさまざまな人間模様を考えさせられます。現在、ウクライナがロシアによって侵攻されていますが、当初ドイツは支援を「ヘルメットだけ」にしたことで顰蹙を買っていました。世界から非難されたことですぐに修正しましたが、現在の国際社会におけるドイツの位置、民主主義に対する考え方は、この映画が描いている裁判により構築されていったのではないでしょうか。

その意味で言いますと、今回ロシアが21世紀の今現在、80年前に戻ったかのような行動をとっているのは、先の戦争が終わったあと、もしくはソ連という連邦国家が解体されたときに自らを総括していなかったからだと、僕は思っています。わかりやすく言いますと、ドイツは過去の行いを悔い改める過程があったのに対して、ロシアは過去を総括することが一度もないまま現在に至っていることです。

ロシアには一応は議会がありますが、野党の党首が拘束されたり迫害されたりといった状況は民主国家とは言えません。それを許しているのは国民が過去を総括していないから、過去から学んでいないからだと思わずにはいられません。

例えば、ロシアは過去にウクライナに対して国民の多数を餓死させるようなかなり残酷な対応をしていますが、そのことを知っているロシア国民がどれほどいるのでしょう。本当に、教育・メディアは大切です。ロシア国民がはやく目覚めてくれることを願うばかりです。

実は、映画を観ていて気になった場面があります。主人公の検事が交通違反を取り締まる担当から、元ナチスだった人を探し出す仕事に任命されたあとに小包が届く場面です。映画の中では、その小包を机の引き出しにしまう場面がアップされていました。ですので、僕はあの小包がこの映画の肝になり、最後の最後に物語の回収に使われるのではないか、と思っていました。しかし、結局最後までその小包が出てくることはありませんでした。あの小包のアップはいったいなんの意味が、目的があったのでしょうか。観終わったあと、それが気になって仕方ありませんでした。

それでは、さよならさよなら。

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